仏様の指 《 19.02 足るを知ることは最高の充足 》
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19.02 足るを知ることは最高の充足
江戸時代の大名茶人松平不昧(ふまい)公は、『贅言(むだごと)』という著書の中で、「茶の本意は知足を本(もと)とす。茶道は分々(ぶんぶん)に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を点てて不足こそ楽しみとなれ。……茶道は足ることを知らせんための作なり」と言っています。
『人生をささえる言葉』https://tinyurl.com/4ys8mak2
( 松原泰道、主婦の友社 (2001/05)、p50 )
「知足」は、文字通り、足るを知るということです。このごろ私は、よくこの「足るを知る」ということについて話してくれと頼まれます。こういう不況の時代にこそ、足ることを知る、「知足」という言葉について深く考えてみましょう。
知足は、釈尊の最後の教えを伝える『遺教経』にある言葉です。修行者が守らなければならない八つの徳目(八大人覚(はちだいじんかく))として「少欲(しょうよく)」(多くを望まない)、「寂情(じゃくじょう)」(静かな所に住む)、「精進(しょうじん)」(勤め励むこと)、「不忘念(ふぼうねん)」(法を守り忘れない)、「禅定(ぜんじょう)」(心を乱さない)、「修智慧(しゅちえ)」(智慧を修める)、「認識」(正しく考える)、「知足」(足ることを知る)が挙げられています。また、「もろもろの苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわちこれ富楽安穏(ふらくあんのん)のところなり」とも書いてあります。
「足ることを知る」は、分を知る、分限を知るということで、いわゆる「ケチ」とは違います。茶の湯では、「侘(わ)び」といって、不足を不足とせず、道具なども「ありよう」、つまりありあわせの道具で十分だとするのです。江戸時代の大名茶人松平不昧(ふまい)公は、『贅言(むだごと)』という著書の中で、「茶の本意は知足を本(もと)とす。茶道は分々(ぶんぶん)に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を点てて不足こそ楽しみとなれ。……茶道は足ることを知らせんための作なり」と言っています。
俳人の種田山頭火は、出家して曹洞宗の僧となって全国を漂泊しながら、極端といっていいほど質素な生活をしていました。俳人の大山澄太(すみた)さんが初めて山口県小郡の其中庵(ごちゅうあん)の山頭火を訪ねたとき、山頭火は非常に喜んで、あんたが今日来てくれるというので、昨日の托鉢でもらったお米を炊いたから食べてくれと、炊きたてのご飯を出してくれました。大山さんが「一緒にたべましょう」というと、「いや、ぼくは茶碗一つ、箸一つしかない。だからあんたが食べてから、ぼくが食べるから、先に食べてくれ」と言うのです。そして、焼いた唐辛子にしょうゆをかけて出してくれました。大山さんが食べ終わったら、その茶碗を洗いもせずにご飯を盛って山頭火が食べるのです。大山さんが感動したのは、二人はこのときが初対面です。初対面の大山さんの食べた茶碗で山頭火が洗いもせずにご飯を食べる。これは夫婦の間でもなかなかできないことです。山頭火は、鍋でお米を研いだら、その水をとっておいて、茶碗や箸を洗い、次にその水を歪んだバケツにあけて雑巾がけをする。そして最後にその水を持って畑へ出て、「今日はお客さんがきたから御馳走があるぞ」と、その米の研ぎ汁を畑に撒く。つまり、山頭火は、一杯の水で、米を研ぎ、茶碗を洗い、雑巾がけをして、そして畑に撒いて、と四回使っているのです。
種田山頭火の「自戒」の句に、「一つあれば事足る鍋の米をとぐ」があります。つまり、足るを知る、で終わってはならないのです。積極的に物を生かしていかなければなりません。一滴の水でも生かして使っていく。ケチではなく、そこにあるものをフルに活用していく。私は「知足は最高の充足である」と信じます。
日本の経済成長時代に「消費は美徳」というまちがった発想がありました。私はその「消」の字を「正」として、「正費は美徳」としたい。正しく使いこなす消費が美徳だと言いたいのです。
それでは、足ることを知るためには何が必要か。『遺教経』では「少欲」と言っています。昔は、まず貧乏をどうするかということが先決でした。社会全体が貧乏だったときの道徳や倫理が「少欲」でしたが、子どものときの服が、大人になったら合わなくなると同様に、物が豊かになった現代では、もう「少欲」と言う道徳で律することは難しいでしょう。持てる時代、物が豊かになった時代の倫理というものが、まだ十二分に確立されていないことが問題です。ですから私は、現代は豊かさの消化不良の時代だと申します。豊かなら豊かで、きちんと消化できればいいのですが、食べ物でも消化不良だと排泄物が多くなります。物が豊かすぎると、消費不良をおこして、街のゴミ捨て場にまだ使える物が捨てられます。十二分に使いきっていないまま、捨てられているのです。
豊かさを十二分に生かしていくにはどうしたらいいか。物が豊かにあるととかく物を粗末に扱います。今のような贅沢な電化生活をしていて、原子力発電をやめようなんて、無理な話です。原発をやめるためには、私たちも、こまめに電気のスイッチを切るとか、そういう骨の折れる努力をしていかなければなりません。
積極的に物を生かしていくには、一枚の紙にも、一滴の水にも命があると知ることです。神にも水にも命があるということは、一枚の紙にも一滴の水にも機能がある、はたらきがあると知ることです。その機能を十二分に発揮させずに捨ててしまうことは悪だという考え方です。機能をできるだけ生かして使っていく、ということが豊かさの一つの美徳でなければなりません。
人間は一度豊かな生活を覚えると、なかなか質素な生活には戻れません。だから今の不況の時代は、ちょうどいい機会です。この不況の時代をただ漫然と過ごしてはなりません。
幸田露伴が『幸福論』の中で、三つの「福」ということを言っています。「分福(ぶんぷく)」「惜福(せきふく)」そして「植福(しょくふく)」です。りんごを食べた者は、必ずりんごの木を一本植える、というのが「植福」。その「福」は、また「徳」でもあります。「福徳」という熟語がありますが、福は物質、徳は人間の豊かさです。物を大事にしていけば、自然に徳がついてくるのです。
千利休は「家は漏らぬほど、食は飢えぬほどにて事足れり」(家は雨露がしのげればよい、食事は飢えないだけの量があれば十分だ)と言っていますが、この言葉は今も生きています。