不都合な真実 《 森有礼の「日本語廃止論」――施光恒 》
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『安倍晋三総理の妄言』
■超拡散記事『ジャニーズ事務所等日本のタブーの芸能界や在日外国人の凶悪殺人事件を実名報道で斬り込むBBCへ情報提供』
■超拡散NEWSポストセブン記事『《壮観》三浦春馬さんの提灯が靖国神社「みたままつり」にズラリ並ぶ理由「毎年参拝」の意外な縁と今も続く「ファンの熱量」』
■超拡散記事『最高裁判事の「LGBT逆転判決」で反日極左の国家解体に加担』
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欧米列強に日本が文明国だと見做されず、不平等条約を結ばされているなか、明治新政府には欧米でも通じる法体系を確立し、政府の各組織を整えていくことが求められていた。(中略)そのためには、欧米で用いられていた、近代社会の諸相を表すような概念を手っ取り早く扱えるようにしなければならない。そこで森有礼は、日本語を公用語として使用すること自体をやめてしまい、公(おおやけ)の言語を英語に統一することでそれを実現すればよいと主張したのだ。
◆日本を近代化するには英語か、日本語か?――「森有礼(ありのり)の「日本語廃止論」
『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』
( 施光恒、集英社 (2015/7/17)、p68 )
これからの日本が世界に負けない国づくりをするには、英語を重視しなければならない。初等教育から学校では英語を教授(使用)言語とし、政府機関で用いられる言語も英語にすべきである――。
これはある有力政治家の主張だが、最近の新聞から引いたものではない。およそ140年前の1870年代に展開された議論である。今で言うところの「英語公用語化論」が、明治初期にすでになされていたのだ。
明治の「英語公用語化論」の急先鋒(きゅうせんぽう)だったのは、のちに初代文部大臣もつとめた森有礼だった。
森有礼は、日本の近代化は日本語では難しい、近代化して欧米列強に負けない国づくりを行っていくためには英語で国づくりを進めていかなければならないと考え、日本語廃止論にまで踏み込んだ極端な主張を繰り広げた。その主張は、世界と伍(ご)していくために、政府内では日本語の使用をやめ、英語で政務万事を執り行うべし、というものだった。
なぜ、森有礼はこれほどの極論を真剣に主張していたのだろうか。実は、現代の英語化推進派の主張に比べると、森有礼の主張のほうがはるかに深い危機感から発したものだった。というのは、明治初期の日本語には、欧米列強のような近代国家を建設していくために必要な語彙が、まだまったくと言っていいほど存在していなかったからだ。
たとえば、本書でもよく登場している「社会」「近代」「経済」という単語、これらはそれぞれ、明治初期に日本語のなかに生まれた言葉であり、それ以前には存在しなかった。
欧米列強に日本が文明国だと見做されず、不平等条約を結ばされているなか、明治新政府には欧米でも通じる法体系を確立し、政府の各組織を整えていくことが求められていた。
近代日本の体制を早急に整えなければ、日本も他の非欧米諸国のように植民地化されてしまうかもしれないという焦りも募っていただろう。そのためには、欧米で用いられていた、近代社会の諸相を表すような概念を手っ取り早く扱えるようにしなければならない。
そこで森有礼は、日本語を公用語として使用すること自体をやめてしまい、公(おおやけ)の言語を英語に統一することでそれを実現すればよいと主張したのだ。
◆外国人から上がった「英語公用語化」反対論(p69)
森有礼は、日本は英語で近代化すべきだという構想を、さまざまな場面で主張した。
欧米への留学を通じ、英語を努力して身につけた彼は、欧米の言語学者などの知識人に自分の見解を書いた英文の手紙を送り、彼らの意見を求めた。
政治、学問、軍事をはじめ、あらゆる分野で欧米の「進んだ」文化をとり入れようという気運が高まっていた当時としては、欧米の知識人が日本の「英語公用語化論」に賛成していると主張できれば、実に心強い後ろ盾となったことだろう。
ところが、森有礼からの手紙を受け取った欧米の識者たちは、彼の急進的な主張に反対し、たしなめるような返事を送ってきたのだ。たとえば、イェール大学教授ウィリアム・D・ホイットニーは、アメリカ言語学協会の初代会長であり、有名な『センチュリー・ディクショナリー』の編者でもあった。
森有礼はホイットニーへの書簡で、次のような主張を展開した。
日本語は文法的に不十分な言語である。語彙も少なく、知的な概念は、漢語、つまり中国語の助けを借りないと論じることができない。したがって、日本語は近代化を成し遂げるには向かない不完全な言語である。
そして森有礼は英語による近代国家建設を主張するのだが、興味深いことに、当時欧米で話されていた普通の英語を導入するのではなく、その「簡易版」とも言うべき言葉を使いたい、という構想を記している。英語は、発音と綴りが一致しないところが多く、外国人が学びやすいように言文一致をなるべく目指してほしいと望んだのである。
英語にも改革を求めたうえで、森有礼は、簡易化され、学びやすく改められた英語によって日本の近代化を図ると主張した。小学校から大学まで教育は、英語で行われるべきだ、国家の制度も英語による運営がなされるべきだ、と述べたのである。
ところが、意見を求められた当のホイットニーは、英語による日本の近代化について否定的な回答を示した。むしろ、森有礼の勇み足を諫(いさ)めるような返答をしたのだ。
◆まず母国語を豊かにせよ(p71)
ホイットニーからの返答は、おおよそ次のようなものだった。
母語を棄て、外国語による近代化を図った国で成功したものなど、ほとんどない。しかも、簡易化された英語を用いるというのでは、英語国の政治や社会、あるいは文学などの文明の成果を獲得する手段として覚束ない。そもそも、英語を日本の「国語」として採用すれば、まず新しい言葉を覚え、それから学問をすることになってしまい、時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問をすることが難しくなってしまう。その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまうだろう。
まさに、ホイットニーが懸念したのは、前章で見たラテン語から「土着語」への知識の「翻訳」の努力を通じてヨーロッパの庶民が享受した知的な進歩への道を、日本人が自ら閉ざしてしまうのではないかということだったのだ。
さらに、ホイットニーは次のように述べ、森有礼に日本語による近代化を勧めている。
「たとえ完全に整った国民教育体系をもってしても、多数の国民に新奇な言語を教え、彼らを相当高い知的レベルにまで引き上げるには大変長い時間を要するでしょう。もし大衆を啓蒙しようというのであれば、主として母国語を通じて行われなくてはなりません」
そしてホイットニーは、日本文化の「進歩」のなかには、「母国語を豊かにする」ことが含まれなければならないと説いた。豊かになった「国語」こそ、日本の文化を増進する手段であり、それが一般大衆を文化的に高めることにつながるというのである。
お雇い外国人ダビッド・モルレーも、森有礼の「英語公用語化論」に否定的見解を述べている。モルレーは、教育とは、前世代までの伝統の蓄積に立って行われるべきものであり、まったく新しい基礎の上に成り立つものではない、と指摘した。つまり、いくら日本社会の革新を断行するとは言っても、前世代までの人々が築き上げてきたものをすべて否定し、無視してしまい、それとは断絶した形で、まったく新しい知識体系を他所から輸入することは、実際問題としてあり得ない、ということだ。
そしてモルレーは、教育政策を考えるうえで、変えてもよいものと変えてはならないものがあるが、教育で用いる言語は最も変えてはならないものの一つである、と断言した。
またモルレーは、ある国において普通の人々が用いている日常の「国語」を用いないのであれば、その国に教育が普及することなどあり得ないと指摘し、次のように述べた。
たとえ明治初期の今、日本語で西洋の学問を講じるのが難しくとも、将来は日本語で教えられるようにならなければ、全国に教育が普及するには至らない。将来は日本語で教えるように改めなければならない。モルレーは、そう論じたのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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欧米列強に日本が文明国だと見做されず、不平等条約を結ばされているなか、明治新政府には欧米でも通じる法体系を確立し、政府の各組織を整えていくことが求められていた。(中略)そのためには、欧米で用いられていた、近代社会の諸相を表すような概念を手っ取り早く扱えるようにしなければならない。そこで森有礼は、日本語を公用語として使用すること自体をやめてしまい、公(おおやけ)の言語を英語に統一することでそれを実現すればよいと主張したのだ。
◆日本を近代化するには英語か、日本語か?――「森有礼(ありのり)の「日本語廃止論」
『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』
( 施光恒、集英社 (2015/7/17)、p68 )
これからの日本が世界に負けない国づくりをするには、英語を重視しなければならない。初等教育から学校では英語を教授(使用)言語とし、政府機関で用いられる言語も英語にすべきである――。
これはある有力政治家の主張だが、最近の新聞から引いたものではない。およそ140年前の1870年代に展開された議論である。今で言うところの「英語公用語化論」が、明治初期にすでになされていたのだ。
明治の「英語公用語化論」の急先鋒(きゅうせんぽう)だったのは、のちに初代文部大臣もつとめた森有礼だった。
森有礼は、日本の近代化は日本語では難しい、近代化して欧米列強に負けない国づくりを行っていくためには英語で国づくりを進めていかなければならないと考え、日本語廃止論にまで踏み込んだ極端な主張を繰り広げた。その主張は、世界と伍(ご)していくために、政府内では日本語の使用をやめ、英語で政務万事を執り行うべし、というものだった。
なぜ、森有礼はこれほどの極論を真剣に主張していたのだろうか。実は、現代の英語化推進派の主張に比べると、森有礼の主張のほうがはるかに深い危機感から発したものだった。というのは、明治初期の日本語には、欧米列強のような近代国家を建設していくために必要な語彙が、まだまったくと言っていいほど存在していなかったからだ。
たとえば、本書でもよく登場している「社会」「近代」「経済」という単語、これらはそれぞれ、明治初期に日本語のなかに生まれた言葉であり、それ以前には存在しなかった。
欧米列強に日本が文明国だと見做されず、不平等条約を結ばされているなか、明治新政府には欧米でも通じる法体系を確立し、政府の各組織を整えていくことが求められていた。
近代日本の体制を早急に整えなければ、日本も他の非欧米諸国のように植民地化されてしまうかもしれないという焦りも募っていただろう。そのためには、欧米で用いられていた、近代社会の諸相を表すような概念を手っ取り早く扱えるようにしなければならない。
そこで森有礼は、日本語を公用語として使用すること自体をやめてしまい、公(おおやけ)の言語を英語に統一することでそれを実現すればよいと主張したのだ。
◆外国人から上がった「英語公用語化」反対論(p69)
森有礼は、日本は英語で近代化すべきだという構想を、さまざまな場面で主張した。
欧米への留学を通じ、英語を努力して身につけた彼は、欧米の言語学者などの知識人に自分の見解を書いた英文の手紙を送り、彼らの意見を求めた。
政治、学問、軍事をはじめ、あらゆる分野で欧米の「進んだ」文化をとり入れようという気運が高まっていた当時としては、欧米の知識人が日本の「英語公用語化論」に賛成していると主張できれば、実に心強い後ろ盾となったことだろう。
ところが、森有礼からの手紙を受け取った欧米の識者たちは、彼の急進的な主張に反対し、たしなめるような返事を送ってきたのだ。たとえば、イェール大学教授ウィリアム・D・ホイットニーは、アメリカ言語学協会の初代会長であり、有名な『センチュリー・ディクショナリー』の編者でもあった。
森有礼はホイットニーへの書簡で、次のような主張を展開した。
日本語は文法的に不十分な言語である。語彙も少なく、知的な概念は、漢語、つまり中国語の助けを借りないと論じることができない。したがって、日本語は近代化を成し遂げるには向かない不完全な言語である。
そして森有礼は英語による近代国家建設を主張するのだが、興味深いことに、当時欧米で話されていた普通の英語を導入するのではなく、その「簡易版」とも言うべき言葉を使いたい、という構想を記している。英語は、発音と綴りが一致しないところが多く、外国人が学びやすいように言文一致をなるべく目指してほしいと望んだのである。
英語にも改革を求めたうえで、森有礼は、簡易化され、学びやすく改められた英語によって日本の近代化を図ると主張した。小学校から大学まで教育は、英語で行われるべきだ、国家の制度も英語による運営がなされるべきだ、と述べたのである。
ところが、意見を求められた当のホイットニーは、英語による日本の近代化について否定的な回答を示した。むしろ、森有礼の勇み足を諫(いさ)めるような返答をしたのだ。
◆まず母国語を豊かにせよ(p71)
ホイットニーからの返答は、おおよそ次のようなものだった。
母語を棄て、外国語による近代化を図った国で成功したものなど、ほとんどない。しかも、簡易化された英語を用いるというのでは、英語国の政治や社会、あるいは文学などの文明の成果を獲得する手段として覚束ない。そもそも、英語を日本の「国語」として採用すれば、まず新しい言葉を覚え、それから学問をすることになってしまい、時間に余裕のない大多数の人々が、実質的に学問をすることが難しくなってしまう。その結果、英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり、一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまうだろう。
まさに、ホイットニーが懸念したのは、前章で見たラテン語から「土着語」への知識の「翻訳」の努力を通じてヨーロッパの庶民が享受した知的な進歩への道を、日本人が自ら閉ざしてしまうのではないかということだったのだ。
さらに、ホイットニーは次のように述べ、森有礼に日本語による近代化を勧めている。
「たとえ完全に整った国民教育体系をもってしても、多数の国民に新奇な言語を教え、彼らを相当高い知的レベルにまで引き上げるには大変長い時間を要するでしょう。もし大衆を啓蒙しようというのであれば、主として母国語を通じて行われなくてはなりません」
そしてホイットニーは、日本文化の「進歩」のなかには、「母国語を豊かにする」ことが含まれなければならないと説いた。豊かになった「国語」こそ、日本の文化を増進する手段であり、それが一般大衆を文化的に高めることにつながるというのである。
お雇い外国人ダビッド・モルレーも、森有礼の「英語公用語化論」に否定的見解を述べている。モルレーは、教育とは、前世代までの伝統の蓄積に立って行われるべきものであり、まったく新しい基礎の上に成り立つものではない、と指摘した。つまり、いくら日本社会の革新を断行するとは言っても、前世代までの人々が築き上げてきたものをすべて否定し、無視してしまい、それとは断絶した形で、まったく新しい知識体系を他所から輸入することは、実際問題としてあり得ない、ということだ。
そしてモルレーは、教育政策を考えるうえで、変えてもよいものと変えてはならないものがあるが、教育で用いる言語は最も変えてはならないものの一つである、と断言した。
またモルレーは、ある国において普通の人々が用いている日常の「国語」を用いないのであれば、その国に教育が普及することなどあり得ないと指摘し、次のように述べた。
たとえ明治初期の今、日本語で西洋の学問を講じるのが難しくとも、将来は日本語で教えられるようにならなければ、全国に教育が普及するには至らない。将来は日本語で教えるように改めなければならない。モルレーは、そう論じたのである。