他人の見ていないところでも己を律し、より有意義な時を重ねてゆきたいものです――伊與田覺さん

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【「致知」2011年8月号、p2 】
[ 巻頭の言葉 ]伊與田覺・論語普及会学監

   獨を愼む

◆人物になるための
 一番の基本

中国古典の『大学』に、次の一節があります。

  「所謂(いわゆる)其(そ)の意(こころばせ)を誠にすとは、自(みず
  か)ら欺(あざむ)くなきなり」

「意」とは意識のことであり、内なる心が表に現れてきたものです。喜怒哀楽の感情も、実は内にあるものが何かの拍子に外に現れてきたものなのです。そして、「其の意を誠にす」とは、意を正常にするということ。それは「自ら欺くなきなり」、つまり自分で自分を欺かないということです。

「忠」という字は中の心と書きますが、これは自分で自分を欺くことなく、常に全力投球で事に当たることを意味します。本来は、自分に向けるべきものです。また「信」という字は、嘘偽りなく、自分が言ったことは必ず守ることを表す文字です。こちらは他人に対するものです。自分に対しては忠、他人に対しては信、いずれも「誠」ということです。

では、自分を欺くことなく、誠を貫いていける人間性を養っていくには、日頃からどのようなことを心掛ければよいでしょうか。『大学』は次のように説いています。

  「君子は、必ず其(そ)の獨(ひとり)を愼(つつし)むなり」

立派な人物というものは自分独りでいる時、つまり他人が見ていない時でも己をしっかりと律していくという意味です。『大学』ではこの「愼獨(しんどく)」を非常に重視し、人物になるための一番の基本としています。

◆獄中で己を磨き続けた
 吉田松陰

愼獨の大切さを理解するため、さらに『大学』を紐解(ひもと)いてゆきましょう。

  「小人間居(しょうじんかんきょ)して不善を為(な)し、至らざる所無し」

小人とはつまらない人、ここでは普通の人といってもいいでしょう。要するにほとんどの人は、暇があってゆっくりしているとろくなことをしでかさないということです。

例えば定年を迎えれば、それまで自分を束縛していたものから解放され、毎日が日曜日となります。しかし、そこで愼獨に努め、自分をさらに練り上げていこうという人はよほどの人物といえるでしょう。

獄中での日々はある意味、閑居の究極ともいえます。それが独房ともなれば、狭いところに押し込められ、誰とも話をすることができず、ただじっとしていなくてはなりません。これは大変な苦痛であり、普通の人にはとても長く耐えられるものではありません。無性(むしょう)に人恋しくなり、なんでもいいから誰かと話したくなる。そこで少しでも優しい言葉をかけられたら、自分のやったことをついペラペラとしゃべってしまうわけです。

そう考えていくと、獄中で朝から晩まで読書に励んだ吉田松陰の偉大さが実感できます。書を読む自由が許されていたとはいえ、獄中という場でさえ己を磨く努力を怠らなかった姿勢は見事です。

その姿勢は牢番や、他の受刑者をも感化し、やがて松蔭を中心に獄中で勉強会が始まります。俳句のよくできる者、書の達者な者など、それぞれが得意とすることを教え合うというもので、松蔭はそこで『孟子』の講義を始めました。しばらくして自宅謹慎となり、牢を出ることになりましたが、この講義を途中でやめるのは惜しいということで、引き続き家族が聞き役となって松蔭に最後まで講じさせました。有名な『講孟夜話(こうもうよわ)』はそのようにして出来上がったのです。

また、ガンジーという人は、インドの独立運動を指揮して幾度となく投獄されました。一般に社会運動をする人は、外に向かってメッセージを発信し続けるため、次第にその内容が空疎(くうそ)になりがちです。しかしガンジーは監獄を自分の勉強部屋と考えて内省を深めたため、外に戻る度(たび)に活動が一層充実していったのです。また正力松太郎(しょうりきまつたろう)は、戦後A級戦犯として投獄されていた間、坐禅を組んでひたすら自己を涵養し、出獄してから大事業を成し遂げました。

しかしながら多くの人は、長く間居するとろくなことを考えないものです。世の娯楽は、そういう人がせめて何かに熱中し、よからぬことをしでかさないためにあるともいえます。真に優れた人物は、そういうものは必要としません。

独りの時間に何をしているか、自分を少しでも高めていくためにも、他人の見ていないところでも己を律し、より有意義な時を重ねてゆきたいものです。


  立派な人物というものは自分独りで
  いる時、つまり他人が見ていない時でも
  己をしっかりと律していく


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