チベットの悲劇――宮崎正弘さん

電脳筆写の記事の中からこれはと思うものを メルマガ『心超臨界』
にて配信しています。是非一度お立ち寄りください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
★日朝交渉文書欠落を振り返る――阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員
【「阿比留瑠比の極言御免」産経新聞 H30.06.21 】https://tinyurl.com/yamezxwj

★河野元衆院議長の無情――阿比留瑠比・論説委員兼政治部編集委員
【「阿比留瑠比の極言御免」産経新聞 H30.06.15 】https://tinyurl.com/y9t3ll6q

★玉虫色の米朝合意をどう読むか――西岡力・モラロジー研究所教授/麗澤大学客員教授
【「正論」産経新聞 H30.06.14 】https://tinyurl.com/ybdxaeel
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

●チベットの悲劇

『アメリカの「反中」は本気だ』https://tinyurl.com/yakgb2k4
【 宮崎正弘、ビジネス社、2018年06月、p206 】

ペマ・ギャルポ『犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る侵略に気づいていない日本人』(ハート出版)は涙なくして読み通せない。

行間にも氏の苦労、チベット人の悲劇、その懊悩と悲惨な逃避行のパセティックな思いが滲み出ている。中国にあっという間に侵略され、中国に味方する裏切り者も手伝って、120万人もの同胞が犠牲となった。ダライ・ラマ法王は決死の覚悟でヒマラヤを越えてインドに亡命政府を作った。その表現しようのないほどの深い悲しみ、暗澹たる悲哀、血なまぐさい惨劇、しかしこのチベットの教訓こそが、日本がいま直面している危機に直結するのである。

日本人よ、中国の属国に陥落し、かれらの奴隷となってもよいのかと訴え続けるのである。なぜなら日本侵略計画はすでに日中国交正常化から開始されており、この謀略にほとんどの日本人が気づいていないという実態にいらだつからだ。

チベットは「寛容の国」だったがゆえに「寛容の陥穽(かんせい)」に嵌(はま)った。結局は邪悪な武装組織、つまり中国という暴力団の塊のようなならず者によって滅ぼされた。日本は平和憲法という、肝要な国家の基本法を押しつけられてから73年も経つのに、いまだに後生大事に墨守している。それが国を滅ぼす元凶であること、左翼の言う「平和憲法」擁護には騙されてはいけないことを力説している。

ペマは最初に埼玉県毛呂山町に住んで、チベット語を喋る木村肥佐夫と出会った。この木村肥佐夫なる人物は波瀾万丈の人生を送りチベット潜行10年、チベット名はダワ・サンポだった。木村は英語、モンゴル語をマスターし、さらにチベット語をネイティブスピーカーのように扱った。木村がチベットに潜り込み、そこで日本の敗戦を知った。残地諜報員としての職務も自動的に解かれ、以後帰国までの流浪物語は木村自身が回想録を書いた。それをもとに木村の生涯を描いた英語本もある。

戦後、ようやく帰国した木村が外務省へ行くと、彼の体験的情報に、外務省がまったく興味を示さなかった事実も、いかに外務省が腐っているかを証明しているのだが、その批判は別の機会に論ずる。ともかく本書のエピソードのなかで圧巻の一つが、この木村がペマ青年を前にして迎えたチベットからの要人との対話の場面である。中国の傀儡となってからのチベット政界の大物が日本にやって来た時のことだ。チベット政府の内閣官房長格だったバラ氏に会ったとき、木村は言った。

「閣下はわたしのことを覚えていらっしゃいますか?」

バラ氏は答えた。「ハイ、覚えています」

すると、木村先生はさらに乗り出した。

「わたしはダワ・サンポです。ソクボ・ダワ・サンポです」(中略)「わたしのことなど覚えているはずがない。あのころ、あなたは天下の大バラでしたから。あなたの顔をまっすぐ見られるチベット人はほとんどいなかったが、わたしはよく覚えているよ。わたしはあなたの顔を忘れない。わたしたちが(チベットの改革のための)嘆願書を出しに行ったとき、あなたはわたしたちに物を言わせずに、叱りとばした張本人だった」

そして先生はわたし(ペマ)を指さし、「この子たちを国のない子供にしてしまったのはあなたたちだ」。

しかし、そのときのバラ氏は立派だった。

彼は静かにこう言った。「おっしゃることはごもっともだ。だが当時のわたしたちは英国をはじめ、周囲の圧力と国内の不満に挟まれ、炎のなかにいるような感じで、かれら(チベットの改革派)を国外に追放することで精いっぱい寛大な措置をとったつもりであったのだ。全員処刑しても収まる状況ではなかったのですから」(ペマ前掲書)