今日のことば 《 真の発見の旅は――マルセル・プルースト 》

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )
The real voyage of discovery consists
not in seeking new landscapes but in having new eyes.
( Marcel Proust, French novelist, 1871-1922 )


◆永遠の未完成

『だから人は本を読む』
福原義春東洋経済新報社 (2009/9/11)、p97 )

荘子を読むに至って、私は「これだ!」と思わず軽い興奮を覚えた。荘子は、さまざまなエピソードを通じて、いかに地位や名声を欲することが無駄であり、無欲が大切であるかを説いた。また世の中に有用と無用の区別などなく、地位や境遇の違った対立、上下関係なども、見かけだけのことで、結局は一つの根源的な「道」に戻っていく。

その思いをあらたにしたのは、かつてバリ島の村でヒンズーの教えに触れた時である。そこの人々は良い人と悪い人を対立概念とはとらえていない。悪い人がいるから良い人が育つと考えているのである。バリの舞踏劇を見ていると、神様と悪霊の戦いがあってもその決着はつかず、ある時は助け合い、どちらも生き残る。同じように、お寺を造っても彼らは完成させることに執着がない。なぜなら完成した時から破壊が始まるので、建設と破壊は対立概念ではなく、一つのものなのだ。

また、日本はむしろ完成する前に放置するそうだ。國學院大學名誉教授の小林達雄氏は、それを縄文文化が持っていた未完の哲学だと書いている。「縄文文化には融通無碍なところもあります。全部つくってしまうことを目的としないという未完の哲学が息づいていました。完成より作る過程を大切にしていたのです。宮沢賢治が『農民藝術概論』で『永遠の未完成、これ完成なり』と言っていますが、日本人には、完成すると終わってしまうことを嫌う傾向があるのでしょう。」(『広告』2009年7月号より)

どれも、自然な人の営みのプロセスと考える深遠な哲学ではないだろうか。

世の中を混沌で認識すること、無に始まって無に帰する認識、ある時は胡蝶になり、ある時は実存する自己になって、ヴァーチャルとリアリティの空間を自在に行き来するおおらかな宇宙観、多元の価値を相対的に見るフレキシビリティなどは、今日私たちの認識の先端を行く複雑系(コンプレキシティ)でなくてなんだろうか。荘子にはプラスもマイナスも、正も逆もない。すべてが生命のある無秩序で、それを包み込むのが「道」なのだろう。

私は12年ほど前(1997年)に『「無用」の人材、「有用」な人材――“老荘”に学ぶ、転換期を生きぬく知恵』(祥伝社)という本を書いた。そのタイトルだけを見て怪しんだ人もあるかもしれない。自分は「無用」なのか「有用」なのか、まわりの人からはどう見られているのか、と。だが、もちろん世の中に存在するものは、人間も含めて本来「無用」も「有用」もないことを伝えたくて書いたのである。こんなふうにあまのじゃくなタイトルをつけたりすることも、老荘の影響なのかもしれないが。